前回の続き。
オーストラリアの仕組みを話そう。
これがわかれば、この思考を持って応用すればいいのだ。
必要なスキル、経験を積むために進んで辛い経験を積む覚悟があれば、未來は明るいのだ。
人生はイコール。若い時に辛い思いをした者は、後に立派な人間となり、幸せな時間を過ごす。一方、金持ちで頭はいいが、いばったり、周りに怒鳴ってばかりいると、仲間も家庭も崩壊していく。
— フィジークトモちゃん (@bobostrainee) November 21, 2019
人生は、トータルではイコールになるのではないか。一言で言えば、人は環境によってつくられるってことね。
オーストラリア労働市場の仕組み
まず日本の労働環境の多くは現実的な言葉で言えば、非常に「奴隷的」だと言える。
なぜそう言えるのか、と言うと、経営者側からの視点になるが、例えば、残業代の廃止(残業代ゼロ法案もいよいよ出てきた。いつもの通り、最初は該当する者は少ないのだが、一度骨組みが出来たその後は・・・)。
素朴な疑問。
残業がゼロになったら早く帰れるのだろうか?
仕事の量は減るのだろうか?
・・・・
企業にしてみれば、残業はさせるが、残業代は出さなくてもいいから、従業員の定額使い放題で、人件費を合法的に圧縮できるのだ。
一方、オーストラリアの場合は法律で土曜、日曜、祝日出勤の場合は、給料は2倍近くになる。
いわゆる
「ダブル・ペイ・デー」
というやつなのだが、こうなってくると、時給で2000円を取っている場合、時給は4000円となるのだ。
さらに付け加えるならば、Holidayは「トリプル・ペイ・デー」というものがあり、時給は3倍となる。
日本で時給6000円だよ、と言えば
「危ない仕事ですか?」
と言われそうなのだが、これはオーストラリア政府の決めた労働法なのだ。
よって、この期間の時給は2000円なら一気に6000円となる。
だから20代は出稼ぎに行け、と言っているのだ。
- 脱藩する
- 時給の高い国でワーホリ修業に出る
- 修行しながら、スキルを蓄える
- 軍資金を殖やす
- 幸福度を上げる
- そのまま起業してまえ
- 次の出稼ぎ国へ(オプション)
というのがワイのプランだ。
英語が苦手なら、ホテルの清掃や農場あたりをターゲットにすれば良いだろう。
ファームステイの場合、きついけれど、歩合制になっているところが多いから、まさに体力勝負でいけばいい。
※ワイの実体験では、1日3万円稼いだことがあり、この瞬間、日本の会社員をやる意味が完全に消えた。
オーストラリアのワーホリ(不都合な現実)
オーストラリアの時給は確かに高い。しかし、どんな分野であれ必要なのは、シナリオだ。
まず若さだけで、現地の店に雇ってもらった場合、レストランでは皿洗い程度しかさせてもらえないだろう。
そこには同じような日本人がたくさんおり、さらに「最低賃金を守っている店」の方が少ないことを知ることになる。
だから若さだけでは、オーストラリアでも派遣社員のような扱いとなる。
※ちなみにワイはここからスタートして、チップによってのし上がった。
だからこそ、帰国組からの情報は超貴重なのだ。
「なぜアルバイト募集があっても、時給が載ってないのか?」
と言えば、
- 違法賃金当たり前、なので載せないパターン
- 実力主義だから、その人の技量によって値段を決める
のどちらかなのだ。
英語にしても、必須となっているところが多いのだが、
「話せるレベル」
などは、その人の価値観次第であり、あいまいだから、こんな基準は無視して、厚かましく突進していけばいい。
さらにオーストラリアが冬のシーズンである場合は閑散期となるから、この時期からアルバイト先を探すのは、難しくなる。
そして、常に壁となるのは、
「経験」
が問われる、という部分だろう。
Experienced Bartender
Experienced Wait Staff
みたいな具合だ。
だから、ワーホリに行く前に、いかに準備をして臨むか、が重要で、逆算して、例えば、コーヒーショップで働くなら、日本のコーヒー店でアルバイトをしながら、渡航費を貯めればいい。
オーストラリアで展開しているなら尚良し。
CoCo壱番屋
は展開していないから修業前には不向きとなるが、マクドナルドは王道だし、すし屋も王道だ。
スタバはカフェ文化大国であるオーストラリアではあまり根付いていないが、あることはある。
であれば、スタバ経験はそのまま生かせるから、「ブラックエプロン」レベルならなぜ海外に出ないのか?
といつも思う(それだけで時給が2倍、3倍となり、海外のスタバ経験はきっと将来も役立つことだろう)。
こういった具合で、自分の好きではなく、戦略に沿って進めていけば、現地に行っても超貴重種扱いされやすくなるのだ。
ちなみにワーホリの雇用期間は一か所につき最大で6か月。
ワイは、完全に修行と捉えていたから、それぞれのアルバイト先で猛烈に働き、次のジョブハンティングをする際には、その店の店長(またはオーナー)から推薦状を書いてもらっていた。
一年間、ドラゴンボールで言うところの精神と時の部屋に入っていた感はハンパなく、
帰国後すぐに躊躇なく起業したのだ。
続く。